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根室は地名の大部分がアイヌ語由来という地域。根室と漢字で表記する様になったのは明治以降ですが、それ以前の地名については上原熊次郎のニイ・モ・オロ、またはニノ・オロ説。加賀屋伝蔵は子モロ説、松浦武四郎氏は『知床日誌』にニ・ムイと書き残している。地名解ではニ・ム・オロとしている。根室市はニムオロ説を採用しているが実は良くわからない地名のひとつ。半島の地名に北方の島の名前が使われている所が有る事。地元では普通に使い分けているが、旅行者はこれで戸惑う事になる。
別海町と根室市にまたがる大きな汽水湖で、地名解では原名をトー 和名 風蓮湖と、東蝦夷日誌はフウレン湖とある。風蓮湖には赤い感じはなく、風連川が注ぐからそう呼ばれたのだろう。別海側からは海のように見えその広大さを実感できるが根室側はそうでもない。
風蓮湖の名前の元に成った川で“フレ・ペッ 赤い川”と言う意味だ。道東屈指の川でその殆どを湿原を流れ水はコーヒーブラウンの湿原特有の色をしている。かつては1mを超えるイトウが釣れる川として釣り人には結構知られた川でも有る。
山筋取調図の風蓮湖内にはアツベツと槍昔の内側に二つの島が描かれそれぞれ“ハルタモシリ 食料を・採る・小島”と“ヤ・リフンカウシ”という二つの島が記されているが、ヤ・リフンカウシは難解。現在の地形図には走古丹から延びる砂州の内側に「ハルタモシリ」の地名が付されているが、山筋取調図に有る島の位置から考えると、二つの島の先に描かれていた無名の島と思われ、風蓮湖にかつて存在した二つの島は早い時期に消失した様で、地名解にはでてこない。長く突き出た半島はヤルムコシで今の槍昔に音は近いがどちらにしても、難解で専門家にお任せです。
厚床沼川からつけられた名前だが今の地図ではアッツベツ付近の事か。地名解では“アッ・トコ・トーペッ”と、アットㇰトと同じで“おひょう楡が・伸びている・沼川と沼”の違いくらいか。厚床沼は槍昔の岬と湖南の厚床川(山筋取調図のポン・アトコト?)を結ぶ湾内の一部なのかべつに沼が有ったのか、はっきりしない。
浜中町に水源を持つ釣り人にはなじみの川ですが“ペッ・ウッカ⇔川の瀬”のことを云うようだが、見た感じは確かに浅いが波立つ様な瀬となればかなり上流に入った所だろう。風連川との比較で云えば河口近くでもそういえなくもない。
風蓮湖の東側湖口付近の地名で沼のある所には比較的多い地名だった様だ。温根沼や厚岸湖にも同名の地名があり、厚岸湖岸には東梅と同じ地名が現存する。更科源蔵氏は沼の頭のことというが地名解では“トー・バイェ⇔沼行き”と書き、人が沼に行く所で有ると根室アイヌの説明を例に書いてある。後ろに続く言葉が省略されているかもしれない。
風蓮湖の東側に延びた砂嘴一帯の地名。日本有数の野鳥の宝庫として知られてネイチャーセンターが入口にあり遊歩道が整備されている。スンクニタィは“蝦夷松の林”を意味するが、造材現場では赤エゾマツの事を“シンコ”と呼んでいるのはスンクがそのルーツかも、シンコと呼ぶのは赤エゾマツだけだ。公園内では野生動物の姿をよく見る。
“オンネ・トーは 大きい(親である)・沼”の意味で根室半島をほぼ横断する細長い大きな沼。漁師が仕掛けた網にヒグマが架かり話題になった事があるが。沼の周囲は国道沿いを除けば湿原に囲まれ自然が残された地域。干潮時には沖合い800mまで砂州がひらけ、アサリ貝等の潮干狩りが出来るが予約が必要。
普通はポロ・モシリと言うと大きな島のことを云うが内陸に付けられた時は国という様な意味合いも有るようだ。此処では“昔祖父多く住居せし故に名つく”と地名解に有る。祖父の住んでた国という様な表現になるのだろうか。各地に多い地名だ。
穂香の南側にある岬の名で地名解では“ヘロッカラ・モイ 鰯を取る湾”と有るがヘロッカラは“heroki-kar-us-i”を短縮した言方で、発音しやすいシロカラに訛ったものか?・・普段の生活でヒがシに聞こえる様な発声をする人は意外と多い。此処では鰯となっているが鰊の事かも、モィは穂香に面した湾の事だろう。のんびりと釣りをするには良さそうな印象だ。
地名解では“ポニオイ 小蛇多キ處”と記しポンイオイの急言で有ると書くが、別海町で“オニオイ トモ云ウ 寄木多キ処ノ義”と別の解も載せている。“ポン・ニ・オ・イ 小さい・木・多い・処”の意味と今は考えられている。蛇に由来する地名として余市が有る。知床半島の斜里側にはマムシ沢という所が有った。 穂香にも「往昔、クリル土人が来攻し宝物奴僕を奪い去った事や、穂香で戦った」という伝説があった。クリルは千島を意味するが、研究者によると古くはオホーツク文化の担い手というが、14世紀以降に関しては千島のアイヌ民族であろう。
“ノッカオマㇷ゚⇒岬の上に・ある・処”という意味。近くにノカマツプ岬とノカマップ埼灯台が有る。灯台付近から見る景色は素晴らしいが、ノカマッㇷ゚は寛政元年に松前藩の圧政に抵抗したアイヌたちが国後、目梨地方の番屋を襲い和人を殺害、これに対して松前藩は討伐隊を派遣してアイヌの指導者を含む37人を幕府に極秘にして処刑したというアイヌ支配の過酷な歴史が残されている。根室市内から約15分程にある風車が目印。地名解によると谷川で獲った鮭を即運んだというのでノカマップ川に近い所だったのかも。ノカマップにはノカマップチャシ跡があり伝承がある「相当古くからだれいうとなく伝えられてきた。その上に立ってみるとボーン、ボーンとうつろな反響の音がする。通称ポンポン山の地下が、アイヌ人の倉になっていて、昔戦いの時宝物を隠したという。伝説は「北構保男・寛政国後蝦夷の乱」より転載しています。
地名解では“トー・サム・ポロ⇒沼傍廣キ處”と、サムは傍という意味だが更に別な名前が有るようだ。元は此処にコタンが有りポロトーとも呼ばれたようだ。国道が沼の最狭部を通っているがポロ沼が国道より下も含めているならポン沼は温根元に有る沼、国道から沼の上を意味しているならポン沼に相当するのは国道から下の湾内がポン沼になるのかもしれない。風景は綺麗なところです。湖内に注ぐ川にポンオネモト川が有り古くにあったオンネモトの村の名残なのかもしれない。国道を挟んでどちらも綺麗な所で、冬はワカサギ釣り場になっている。
トーサムポロ沼の北にある集落の地名で“オンネ・モィ⇒重要な湾”と考えられている。地名解では“大湾”と、ただ気になるのは“湾の奥に沼有り故に名ずく、オンネモトと呼ぶのはこの地に古くアイヌ村在りしという”ともトーサムポロ沼とそこに注ぐポンオネモト川の存在や地形から考え合わせて見ると、温根元の地名はトーサムポロ沼の村か隣の湾に有った村の名が移った可能性も否定出来ない。温根元にはウエンチャシという砦跡があり「昔コノチャシの大将が戦いに負けて逃げてしまったので名付けた」という記録が納沙布日誌にあった。根室半島は北海道でもチャシが群を抜いて多い地域ですが、一般に知られている伝承は極めて少ない。写真はオンネモトチャシから。
根室半島先端部の地名で岬の名前ともなっている。“ノッ・サㇺで⇒岬の・かたわら”の意味となり元々は岬傍らにあった集落の名前が半島先端部と岬の名前に使われるようになったもの。松浦武四郎が訪れた時は先端部はノツシヤフと呼ばれていた。今は四島のかけ橋や平和の塔などの施設が有り北方領土返還運動のシンボル的な存在でありる。
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