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元弟子屈市街の所に釧路川が急カーブで曲がる所に川底が岩盤になった所が有り、弟子屈はそこに付けられた名前という。“テシカ tes-ka”は岩盤(梁)の上と云う事だが事実上は梁の様な岩盤と思えば良い。ここでは“tes-ka-ka”なので知里辞典によれば“ヤナ(梁の様な岩)の・岸の・上”とされている。ここでは梁を作る為のクイが打ち込めなかった事からその様に呼ばれた様だ。道東有数の温泉街で、川が切り替えられ以前の姿を見る事は出来ない。
阿寒国立公園のはぼ中央に位置する屈斜路湖は武四郎の記録では久須利湖となっており、屈斜路湖の湖名は比較的新しい地名。湖水が釧路川となつて流れだす所に有る“クッチャル⇒to-kutcar(沼の喉口)”に由来、湖が川になって流れ出す所のクッチャルに屈斜路の字を当てたもの。屈斜路湖はクッチャロの近くに有力なアイヌコタンが有り、クッチャロの名は有名だったという。コタン名の由来は湖口で有る事から今は屈斜路コタン、単にコタンとも呼ばれている。同名では道北の白鳥飛来地として有名な浜頓別町のクッチャロ湖があります。
屈斜路湖の西岸に注ぐ川の名前で河口周辺の地名でもある。“オ・サツ・ペ⇔o-sat-pe⇒尻乾くもの”で渇水期になると川尻では水が少なくなったか、伏流し表面は乾く川なので有ろう。その時期は河口付近の釣りは諦めた方が良いかも。源流域には湧水もあり幻の滝とも云われる滝が二つある。アイヌ時代は阿寒に抜ける交通の要所だった。
松浦武四郎の記録によると和琴半島は“ヲヤコッモシリ”と有り、それが本来の名とすれば“o-ya-kot-mo-siri⇒尻・陸地ついている・小さい・島”とすべきか。先端部にオヤコツ地獄地と云う名が残るが、ここは未だ噴気をあげる火山活動が続いていて、地熱が高くミンミンゼミの北限生息地として知られる。武四郎の訪れたときは対岸より火が見えたとも。和琴の由来は半島の付け根で、魚で云えば尾びれの付け根のくびれた部分に当たるワッコチ。紀行家大町桂月によって和琴が当てられものが半島全体を云う様になった。
屈斜路湖岸沿の温泉地で湖畔有数の森が残され遊歩道が有る“ニ・プシ ni-pus-i”で冬に木が凍り凍裂する時に木が跳ねる説と“ニ・プ・ウシ ni-pu-us”で昔魚を貯蔵する木で作った保存小屋が有ったからという説が有り、武四郎の戊午日誌では具体的で、魚ではなく鹿を保存したと。酷寒の地では凍裂は何処でも起こるだけに“ニ・プシ”が残されたのなら奇跡に近いが、チカップ美恵子さんは「森と大地の言い伝え」の中で凍裂説を採られている。
有名な別府温泉と同じ泉質を持つことで知られる川湯温泉だが元々はセセク・ペッで“熱い〈湯の〉川”である。セセクはアイヌ語で熱い、温泉(此辺ではそのままでは使えない高い温度の事を意味するという)の事だが日本語のユ(湯)にとってかわられ地名として残っているのは、知床半島のセセキ温泉くらい。温泉の川とする考えもあるがその場合は限られた範囲の地名が広域化したと考えるのが自然。温泉という場合は冷泉に対しての温泉、この場合は湧出口と流れだし部分の事。そのまま湯に浸かれる湯溜まりや温泉は此辺ではヌーと呼ばれていた様です。
弟子屈町川湯にある硫黄の混じった蒸気を大量に噴き出している山で川湯三山のひとつ。活火山である硫黄山は知床半島の硫黄山と区別するため川湯硫黄山とも呼ばれる。硫黄山は別名をアトサヌプリと云い跡佐登(あとさのぼり)と字を当てている。川湯付近の平野部は跡佐登原野と呼ばれる。アトゥサ・ヌプリ atusa-nupuri⇒裸の山”という意味だが、確かに噴気孔近くは硫黄のため木が一本もないが山全体が裸の山という訳ではない。
JR釧網線美留和駅とその周辺の地名で、駅の近くに美留和山が有りそこから美留和川が流れ出し釧路川に注ぐ湧水の川。地名解では“ベルア 清泉岩中より湧出す”と有り“pe-rua”水多い流域を泉と解釈したのか。斜里町宇登呂のペレケと同じ意味で更科地名解では“小山〈美留和山〉をペルケヌプリ〈裂けた山〉とも呼び、その麓から流れる川をペルケ・イワ・ナイ川と呼んでいたのが、ペレイワナイとなり、ヘルアとなり、美留和という字を当てた”と・・弟子屈町は道内でも湧水カ所が群を抜いて多い所だが殆どが美留和に集中する。美留和川には有名な神の子池の倍の湧水を誇る泉も有り「清泉岩中より湧出す」には現実味が有る。
摩周は摩周湖と摩周岳、JR釧網線摩周駅の駅名ですがその語源は謎に包まれている。地名解では“マシ・ウン・トー かもめのいる湖”としているが高い外輪山の底に有る湖には非現実的だが、旭川でもカモメを見た事もあり完全否定は・・・松浦爺の記録ではマシウ岳、カムイ岳とも、湖はマシウントーとなっており、色々な逸話を(義経も有る)記しているが、誰も本当の事を知らないと。地元出身の更科源蔵氏の説に従うと、一般にカムイは神とする事が多いが、此処のカムイは知床のカムイワッカと同じ魔神を意味するようだ。そんな訳で“摩周岳→カムイヌプリ⇒魔神の山”“摩周湖→カムイトー⇒魔神の沼”と云う事になる。更科氏によると元々カムイトー呼ばれていてマシウと云われるのは安政の頃からの書物からと。
鐺別と難しい字だが弟子屈市街で釧路川に合流する川名で地名で、有名では無いが温泉も有る。普通はトーベツというと“沼川”となるがここはそうではないらしい。地名解では“ト・ペッ・クシ 2派川”とし、川が二つに分かれ流れる事“アイヌはただト・ペッ”と呼ぶとある。川中島等があり川が二つに分かれる所をトーペッと言うことがあるそうだ。更科地名解では“雨が降ると直ちに川水が倍になるので、トー・ペッは倍になる川”と。地形図で見る限り沼は無く増水には弱そう。
松浦武四郎は屈斜路湖に安政5年4月に訪れている。訪れた翌日はイソリツカラの案内で船上から見た温泉と湖岸に遊ぶ一羽のアカショウビンを見つけ、その風影を詠んだ歌“久寿里の湖岸のいで湯や あつからん 水迄鶏の 水乞てなく”を残している。その後船で中島の方に廻り船上から見た屈斜路湖畔の地名を詳しく書き記した。また手違いで食料が届かず、ここで捕らえたヲペライ(イトウ)やシユリヲホ(ウグイの一種・現在バリモモと呼ばれる魚の事か)と云う魚で凌いだとも。武四郎は池の湯をヌーと記しているが、元々は“ト・サム・クスリ to-sam-kusuri”沼傍の温泉と呼ばれたらしい。クスリは飲める温泉でヌーはそのまま使える温泉と云う。温泉は夏は適温だが冬は温度が低すぎて入浴は無理。歌碑は野湯マニアには有名な池の湯の右奥、まつや旅館の裏側湖畔にあり、昭和16年に佐々木米太郎氏が建立。(再訪2011.09)◇弟子屈町池の湯
屈斜路コタンのアイヌ民俗資料館敷地内?(民宿 丸木船の裏)に松浦武四郎の歌碑が建立され“汐ならぬ 久寿里の湖に 舟うけて 身も若がへるここちこそすれ”と刻まれている。歌碑の右奥には超有名な露天風呂「コタン温泉」がある。民俗資料館の展示はユーカラの森、コタンの大地、コタンの移り変り、山野を駆ける、コタンを支える人々の5つのテーマなのですが、松浦武四郎の紹介と日誌や地図を目立つ位置に展示してある(再訪2011.09)。◇弟子屈町字屈斜路古丹
春木南華の“松浦武四郎著の久摺日誌を読んでの碑”があった。摩周湖には何度も行ったが写真等を撮る機会もなく・・武四郎のスケッチを元に最後の清書をした絵師だったので武四郎の記録は読んでいて当然とも云えるのだが。春木南華は1818年生まれというので武史郎とは同年代の方。「碑」は摩周湖第一展望台の左高台に有るが、訪問時には地震で倒れたままになっていた。写真は碑の場から摩周湖を(2010.10)
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